歌舞伎プロジェクト

プロジェクト概要

ハワイ州立大学演劇舞踊科(University of Hawaii at Manoa, Department of Theatre and Dance  http://manoa.hawaii.edu/liveonstage/theatre/)は専門家を招聘し、歌舞伎の演技方法を1年間で学生に指導し、大学内の劇場にて実際に衣装、かつらをつけて演じさせるというプログラムでは長い歴史と質の高い授業を誇っています。このプログラムは数年ごとに行われてきましたが次回2020年度に向けてJulie Iezzi教授と八代目市川門之助は、3年間のプロジェクトを企画しています。

なおプロジェクトの概要は以下の通りとなります。

2019年
・6月
2週間に亘るワークショップ。
受講生はハワイ大学演劇舞踊科の学生とともに世界中から集まる予定。

2020年
・8月 ハワイ大学演劇学部新年度スタート 
1年間で『青砥稿花紅彩画』(浜松屋の場、稲瀬川勢揃いの場)を学ぶ。
歌舞伎実技、発声の練習
・11月 1ヶ月間、門之助が現地で指導
以降、2021年3月まで日本とハワイ間でSkypeを使って指導を行う。

2021年
・1月〜5月 イーストウエストセンターで『歌舞伎ハワイと日本の繋がり』展示
・4月 現地にて門之助及び高麗蔵が指導
ハワイ大学内ケネディーシアターにて上演会

*日程などの詳細は変更の可能性あり

2019年6月のサマーワークショップは、翌年の演劇舞踊科の入学希望者を募るための宣伝の意味合いを持つ講座となります。正規の講座を履修できるのは当然ながら学生のみとなりますが、サマーワークショップに関してヨーロッパなど海外からの希望者を含む一般にも受講が許可されています。門之助は弟子とともに、ここでは女形、立役の基本的な所作と立ち回りの指導および翌年から授業で扱う演目(「白浪五人男」)の台詞の指導も行います。最終日には受講者に予算の関係上、稽古着のままではありますが演目の一部を披露していただきます。

2020年度の授業では、新年度の初めにIezzi教授が歌舞伎の概略を説明し、基礎的な知識とともに日本語の台詞を学生に覚えさせます。これは歌舞伎独特のリズム、抑揚などを耳に馴染ませ、その後英語に翻訳された台詞を覚えるというハワイ大学のやり方です。2020年10月には門之助が現地に赴き、実演を交えながらひと通りの所作指導を行います。門之助が帰国した後は、学生たちはIezzi教授指導のもと、英語の台詞を覚え始めます。11月から2021年3月までは日本とハワイの間でSkypeによる個人指導も行う予定です。2021年4月には再び門之助が市川高麗蔵とともに現地に赴き、最終的な指導を行ったのち、学内にあるケネデイーシアターにて約一週間に亘り発表会を行う。この際は、化粧をし、衣装、かつらをつけて本格的な公演として上演します。ケネデイーシアターでの発表会の初日、学生たちによる発表が終わった後門之助と高麗蔵がデモンストレーションを企画しています。

また2021年1月より5月まで、ハワイ大学内にある独立研究機関であるイーストウエストセンターで『歌舞伎ハワイと日本の繋がり』と題して歌舞伎に関する展示が企画されています。イーストウエストセンターはオバマ前大統領始め、ヒラリークリントン、アウンサンスーチー氏ら世界的に著名な人々がスピーチを行っている権威ある研究機関です。門之助はここで歌舞伎役者が演じる歌舞伎とはどのようなものなのかを学生のみならず、ハワイの人々にも知ってもらうためのデモンストレーションを披露する予定です。

なお上記以外にも履修生が来日し、日本の劇場で歌舞伎の『里帰り公演』も企画しています。

意義

太平洋の中央に位置するハワイは、東と西が出会う場所です。その土地柄から、ハワイ大学は元々の原住民であるハワイアンを含むポリネシア系、白人、アジア系など様々な人種で構成されています。演劇舞踊科では西洋の演劇にとどまらず歌舞伎を含む様々なアジアの演劇を多民族の学生たちに教えることで、演劇の奥深さを肌で体験させるのが大きな特徴となっています。その年によって異なる演劇を扱いますが、日本の演劇では歌舞伎のみならず能、狂言なども講座の対象となっています。

さて海外の人々が歌舞伎を観る、もしくは演じるということは当然ながらそのバックボーンである日本固有の文化、価値観を理解することにほかなりません。つまり1924年より授業の一環としてハワイ大学演劇舞踊科で行っている歌舞伎の授業は海外の人々が日本を理解する一助となり、昨年移民150周年を迎えた日系人にとっては自らのアイデンティティーを識る重要な機会となるでしょう。

断腸の思いで祖国日本を離れ、南の島のさとうきび畑で望郷の念を抱きながらもただひたすら働いた一世。歴史の狭間で苦しみながらアメリカへの忠誠を誓った二世。こうして「アメリカ人」になった彼らですが、『歌舞伎』の中に故郷を見出し、演じ、観ることで必死に生き抜いたのです。門之助は彼らが守り受け継いだ歌舞伎を日本とハワイの繋がりとしてより強固にするお手伝いができるようにと考えています。

移民とともに歌舞伎が辿った歴史

1868年、日本からハワイへの最初の入植者が海を渡りました。遠い異国の地でさとうきび畑の労働者として厳しい生活を強いられた彼らは故郷日本への郷愁を胸に抱きつつ辛抱し、当時のハワイ王国の大切な労働力となっていきました。入植してみると想像を超える厳しい労働、言葉の壁、文化の違いなど困難の連続でした。今でこそローカル(地元民)としての地位を確立した彼らですが、艱難辛苦を「我慢」「仕方ない」「義理」「恩」「忠義」「恥」などに代表される価値観を固く守り続けながら、乗り越えてきました。

1868年の入植以降、日本からハワイへと渡った多様な業種の人々の中には芝居の知識を持った人も含まれていたようです。こうして日本から持ち込まれた歌舞伎が、そんな彼らにとっての娯楽であったことは想像に難くありません。最初の移民から25年後には初めての「歌舞伎」がすでに上演され、ホノルルには「Shurakukan」「Asahi Theatre」などの芝居小屋もあるほど当時の日系人社会に溶け込んでいたようです。しかし誠に残念ながらこれらの劇場は火災ですべて焼失してしまい資料もあまり残っていません。巻末の写真に幟が立った当時の芝居小屋がありますが、そこからも当時の賑わいを感じることができます。

芝居小屋は焼け落ちてしまいましたが、日系人たちの歌舞伎への思いは消えることはありませんでした。以降、場所を変え、何度となく上演されてきた「歌舞伎」ですが、これらはあくまでも東京の歌舞伎座の本興行に出演するような役者が演じる本来の歌舞伎ではなく、地芝居や旅の一座がハワイに持ち込んだ芝居を「歌舞伎」として上演したものでした。

「歌舞伎」がこれほどまでにハワイ日系人コミュニティーに根付いた理由の一つに歌舞伎に造詣の深い当時の日系人たちの存在があります。彼らが、金銭面、演出などの技術面においても尽力し、ハワイでの「歌舞伎」の大元を作り上げてきたのです。激動の時代を経て、いつしか「歌舞伎の舞台」はコミュニティーからハワイ大学へと移り英語で演じられたり、シェークスピアなど西洋の演劇を歌舞伎風に演出し、上演するといったハワイ独特の東西入り混じった革新的な発展を遂げて行きました。

なぜハワイ大学で歌舞伎なのか

日本人の入植とともにハワイに持ち込まれた歌舞伎は、日系人コミュニティーの中で独自の発展を遂げ、その性質は歌舞伎というよりはむしろ地芝居といったものでした。しかし近年になってハワイ大学に日本の歌舞伎役者(中村鴈治郎、中村又五郎、尾上九朗右衛門など)が指導に訪れたり、日本において歌舞伎を観て学んだ「アメリカ人研究者らがハワイ大学で教鞭をとるようになってから、その性質は伝統と革新が混在しつつも本来の歌舞伎へと変化していきました。

演劇舞踊科では日系人のみならず日本語のノンネイティブが耳慣れない日本語、所作を覚え、衣装を着て400年以上の歴史を持つ日本の芝居をするのですが、日系人学生にとっては自分のルーツを識る機会にもなり、またそれ以外の学生たちにとってもハワイに根付いた日本の文化、伝統を理解することにもつながるのです。つまり演劇舞踊科の授業でありながら、異文化理解を開花させることができるユニークなプログラムとなっています。

注目すべきは、学生たちが日本語ではなく英語で演じることです。かつては日系人一世、二世が日本語で上演してきた歌舞伎が、なぜ英語で演じられるようになったのでしょうか。これにはハワイ独特の状況があります。

1830年代よりハワイ王国はサトウキビを輸出するようになった一方、労働力が不足したことから、中国、日本、ポルトガル、ドイツなど様々な国からの移民を受け入れました。中でも日本人がいちばん多く入植したのですが、これは日本人が勤勉で定着率も良かったことによるそうです。1898年、ハワイ王国がアメリカに併合されたあとも日本からの入植は続きましたが、初期に入植した日系人たちの世代交代も進んでいきました。

このような背景の中、1924年にはすでにハワイ大学において英語で「The Faithful」(「忠臣蔵」)が上演されています。これは当時、人種差別や偏見により白人の役をやらせてもらえない日系人学生たちが苦肉の策として自分たちで作った芝居を上演せざるを得なかったからに他なりません。

とは言え、未だ住民たちの多くは英語の母語話者ではなかったため、この解決策として大学は、学生たちに英語で芝居をさせ優秀者には賞を与え英語を浸透させようと考えたそうです。こうして歌舞伎が本格的に英語で上演されるようになっていきました。このような形で日本の歌舞伎がハワイの言語政策の一環として使われたのは歴史のいたずらのように思われます。一見すると大学側のこの言語政策は日系人に対して祖国の文化を捨てるよう迫ったように見えますが、実は彼らに英語による上演というアメリカ国家への同化を求めたのと同時に、歌舞伎を演じることで祖国を表現し、文化を深く識ることを許した懐の深い政策だったと言えましょう。

途中、第二次世界大戦という不幸な歴史で大学における学生たちの歌舞伎上演は中断されました。しかしその戦争がきっかけとなり芝居の検閲官として日本に駐在したハワイ大学の日本語スピーチ学の教授が日本から最新の歌舞伎の情報を持ち帰り、以後、大学で研究の対象となるようになりました。大学での英語による歌舞伎熱が高まる一方で、日系人コミュニティーの中で上演されていた日本語による歌舞伎もだんだんと少なくなり、これに携わっていた指導者たちは大学側の公演を支えるようになっていきました。こうして歌舞伎の舞台は日系人コミュニティーからハワイ大学へと移り、演劇舞踊科の授業が出来上がっていったのです。

現在の大学の授業では、まず学生たちに本来の日本語の台詞をそのまま覚えさせるところから始まります。つまり「歌舞伎の耳」を備えさせてから英語のセリフを覚えさせます。歌舞伎が持つ独特な節回しや抑揚などを十分に考慮した上で翻訳された英語のセリフを改めて覚えさせるという手法は、ハワイ大学の長い歴史の中で生まれてきたノウハウだそうです。

こうして1年間歌舞伎を学んだのち、大学内のケネディーシアター(620人収容)で発表する歌舞伎は地元紙(Honolulu Star Bulletin)などにも取り上げられるなど学外からも関心が寄せられています。

これまでに1000人以上の卒業生がこの授業に参加してきました。卒業後、アメリカや日本のエンターテインメント、教育初め様々な分野で活躍している彼らにこの授業についてのアンケート調査をした結果、皆一様に自分たちの人生にとって大変に意義深い授業であったと振り返っています。演劇の現場にいる卒業生たちは自らの演劇のアプローチに歌舞伎が大きく役立っていると評価、また驚くべきことに教育現場にいる人の多くが「歌舞伎」のトレーニング方法を具体的に活用しているということです。また謙遜ということを学んだ、自己成長にも繋がった、と歌舞伎が内面にも良い影響を与えたと言う卒業生もいます。

ハワイ出身者はこの授業がハワイに根付いた日本の文化や宗教について理解するきっかけになった、または自分の中に流れる「Japaneseness」を強く意識させてくれたとも言います。多くの日本人にとってはまず歌舞伎は敷居が高くなっています。その上、あくまで劇場で観て楽しむ歴史ある芝居と捉えられがちですが、ハワイの人々にとっては少し違うようです。歌舞伎は実際に彼らの内面的な成長を促したり、ハワイと日本が辿った歴史の狭間で、人々に大きな影響を与えて来たのです。これは日本人にとって大変に興味深い点です。またこの経験がきっかけとなり日本に行くようになった、アメリカや日本での歌舞伎公演にも足を運ぶようになったという声も聞かれるように日本への理解を深める体験となっているようです。

また近年、このコースを履修した学生の中にはかつてハワイ大学で歌舞伎を学び舞台に立った人々の子孫も含まれています。歌舞伎が世襲されるようにハワイ大学の卒業生、学生たちの中でも代々受け継がれているのも大変に興味深いところと言えます。

演劇舞踊科の長い歴史の中でも1963年に大学に新しく建てられた劇場(のちのケネディーシアター)の柿落としで上演された「Benten the Thief」(「弁天小僧」)は劇場で公演された芝居の中で最も豪華な公演となった。Randall Duk Kim (俳優)、Ed Sakamoto (脚本家)らも参加していました。大学での歌舞伎公演には日系人のみならず様々な人種の学生たちが参加し、ハワイ大学の人種を問わない配役の方針は本土の演劇界に先立ち極めて革新的でした。

1973年には演劇舞踊科Department of Theatre and Danceのカリキュラムに「日本の演劇」というコースが正式に加えられています。現在では演劇祭や全米ツアーなどハワイ大学の「歌舞伎」はその活躍の場を広げています。

Julie Iezzi, PhD
演劇学科教授。専門は日本の伝統演劇。
東京藝術大学にて邦楽の修士号及びハワイ州立大学にてアジアの演劇の修士号及び博士号取得。

歌舞伎、狂言の翻訳並びに演出。常盤津、長唄三味線を得意とする。日本の伝統演劇、現代アジア演劇などの講義及び実習を担当。